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「父の死ぬ瞬間の、最期の呼吸が撮りたい」ーー虚構の世界に生きた人間の真実【緒形圭子】

「視点が変わる読書」第19回 『ジツゴト』中村結美 著

 

■織本順吉という俳優の凄み

 

 ここで織本順吉という俳優について説明をしておこう。

 織本順吉の本名は中村正昭だが、結婚して中村姓になったのであり、旧姓は角田だ。角田正昭は昭和2年、神奈川県に生まれ、高校卒業後、大手電機メーカーを経て昭和20年に新協劇団に入団した。その後、岡田英次、西村晃、木村功らと劇団青俳を結成したが、昭和55年に劇団が解散した後は、フリーとなり、映画、テレビドラマなどで活躍。総出演作は2000本を超える。主な出演作には「仁義なき戦い 完結篇」、「男はつらいよ 寅次郎わすれな草」、「長七郎江戸日記」、「3B組金八先生・第5シリーズ」、「やすらぎの郷」などがある。

 私生活では昭和35年に劇団青俳の劇団員だった中村矩子と結婚し、結美、菜美の二児をもうける。地道に淡々と脇役を演じ続けるような人物なのだから、家庭ではさぞいい父親だったのだろうと思うかもしれないが、さにあらず。

 映画では家族の写真とともに家庭の状況が紹介された。それによれば、昭和39年妻の矩子が家族の介護のために子供を連れて神戸の実家に戻ると、織本は一人東京に残り、以後25年間、家族とは別居生活となった。神戸の家が菓子屋を営んでいたこともあって、「そちらの生活はそちらで何とかしてくれ」と生活費は一切送らず、一年間に正月とお盆合わせて1週間程度しか帰らず、子供の運動会にも授業参観にも卒業式にも出席しなかったという。

 そればかりではない。映画に出てくる晩年住んでいる家は自然豊かなところなので、最後は妻とともに安心して暮らせる家を罪滅ぼしのために自分で建てたのかと思ったら、そうではなかった。

 『ジツゴト』によれば、自由業である織本はローンを組めないので、まず矩子が神戸の家を担保にローンを組んで那須に土地を買い、その次に神戸の家と土地を売ってその金で那須の土地を抵当から抜く。今度はその那須の土地を担保にローンを組み、家の建築資金を捻出する。といった具合に全て妻頼みだったのだ。

 しかも神戸の家を売って矩子が那須に来てみれば、家はまだ整地もされておらず、矩子は織本が探してきた自動車学校の合宿所で家が建つのを待たなければならなかった。織本は旅公演に出てしまい、引っ越し代も生活費も送ってこない。さらに厄介なことに、自宅の目の前の土地が織本の愛人の名義になっていることが発覚したのだ。つまり、織本は長年苦労をかけた妻が那須に家を建てて同居することを断った場合を想定して、愛人にも那須に土地を買わせていたのである。

 中村は神戸の家を売るという母に、本当に神戸を離れていいのか、父から離れて自由になる選択もあるのだと諭したが、母はチラつく女の影に、「ここまで我慢してきたのに、今さら父の自由にさせるのも癪にさわる」と女の意地を見せたのだった。

ところが那須に来てみれば、想像を上回る過酷な裏切りが待っていて、矩子は怒りと不安で発狂するような状況に陥ったという。

矩子は中村に言った。

 「あの人、人間やないで。人間の心がない」

 こうした家庭状況を知ると、中村が老いた父親の最後に自分のカメラで迫ったのは、俳優人生を貫いた父親への最後のはなむけなどという甘っちょろいものではなく、家族をないがしろにした父への復讐であることが分かってくる。

 実際中村は容赦ない。

 「朝5時に起き、身支度をする父、ズボンのボタンが留められないと地団太を踏んで癇癪を爆発させる」、「昼食後、突然立ち上がれなくなる。『引っ張ってきくれ』というので母が手を取ると、全く足に力が入らない様子」、「セリフがあやしく、監督が来てセリフを付け直す。『織本さんのセイリフから』とリテイク。また間違い、止められる。父の方から『語尾の言い方を変えてもいい?』と聞いたりしているが、覚えきれない言い訳のようだ」、「あのセリフ覚えが自慢の父が、しれっとカンペを要求する姿を目の当たりにして、ショックを受ける」……本の中では弱った父親の姿がこれでもかとさらされる。

 ところがそれが映像となると、織本は確かに老いた無様な姿を晒してはいるのだが、そこに確固たる意志が感じられるから不思議だ。

 台詞を間違えながら演じているところでも、杖をつきながらヨタヨタ歩いているところでも、おむつパンツを自分で穿いているところでも、出来ないことよりも、「俺はこうするのだ」という意志が際立つ。

 いちばんそれが感じられたのは、那須の自宅の庭を妻に手をとられながら歩いている時だ。後ろからカメラを向けている娘に向かい、織本は「うしろから撮るな!」と怒鳴る。

 この言葉の意味を中村は映画の中で父に問い、織本はこう答えている。

 「どういう死に方をするかわかないわけだよ。そうするとうしろから撮られてるその瞬間も、俺はある種死ぬ覚悟を持って、カメラの客観に入ってんのかなっていうね、そういう感じだと怖くなってくるんだよ自分が」

 何を言っているのか、よく分からない。しかし、ここに織本が俳優として大切にしてきた何かがあるような気がする。

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緒形圭子

おがた けいこ

文筆家

1964年千葉県生まれ。慶應大学卒。出版社勤務を経て、文筆業に。

『新潮』に小説「家の誇り」、「銀葉カエデの丘」を発表。

紺野美沙子の朗読座で「さがりばな」、「鶴の恩返し」の脚本を手掛ける。

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